2009年11月27日

ペリーとプチャーチン

1853嘉永6年
ペリー、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、国書受理を要求。

嘉永6年6月3日のペリー来航と開国要求は、日本に大きな衝撃を与えた。対応に苦慮した老中阿部正弘は、翌年春の再来航に備え、先例を破って諸大名に対策を諮問。多くの大名は要求拒否を主張したが、軍事力の差はいかんともしがたかった。

ペリーに触発されたロシア使節プチャーチンが長崎に来航したのは、同年7月18日である。懸案の国境確定と開国通商を求めるための来航だった。幕府応接掛が長崎に到着したのは半年後。幕府の引きのばし策にあって要領を得ぬまま、プチャーチンは退去する。

しかし、これまでの慣行どおり長崎に来航したロシアへは、好感をもつ識者が多く、韮山代官江川英龍はロシアとの通商を幕府に建議、勝海舟もロシアを含めたアジア諸国との交易で西洋諸国に対抗すべき、と主張した。

ロシアの日本訪問に刺激されたペリーは、先を越されまいと翌年早々に再来日する。軍事力を背景に日米和親条約を締結し、下田・箱館の開港を実現、機先を制した。

後塵を拝したプチャーチンは、意表をついて大坂湾に姿を現す。しかし、ここでは朝廷を驚かせただけで、なんの結果も得られない。大坂警備が重要との認識を朝廷・幕府に植え付けたにすぎなかった。幕府の要請でおり、アメリカによって開港された下田に回航したプチャーチンは、安政の東海地震で乗艦ディアナ号が沈没する憂き目にあいながら、ようやく日露和親条約調印にこぎ着けた。
posted by 無門 at 17:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月18日

幕末〜黒船来航から箱館戦争まで〜

第5回 江戸文化歴史検定 お題

幕末〜黒船来航から箱館戦争まで〜


開国という新しい時代を迎える契機となったペリーの来航(1853年)から、旧政権(徳川幕府)の一大勢力の抵抗が終息した箱館戦争終結(1869年5月)までの歴史・文化・世相など様々なジャンルについて出題。

例えば・・・・

◎幕末期の幕府・朝廷・諸大名・諸外国の動向


◎幕末に起こった様々な事件や出来事


◎時代を動かした様々な人物について


◎幕末期の庶民の暮らしや世相・文化など


詳細は、江戸文化歴史検定公式サイトへ。
posted by 無門 at 17:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月31日

『飛び入り受検』

午前8時30分より受付開始(11月1日試験当日)
※3・1級は9時45分、2級は12時00分を以って受付締切。
詳細は公式ページへ。

“今年のお題”
東海道五十三次〜江戸の旅
お題からの出題内容
江戸・日本橋と京都・三条大橋を結ぶ東海道五十三次と、東海道を中心とした当時の旅や交通にちなんだ内容が中心。

○江戸時代の旅の様子
 例)旅装や旅道具旅の心得旅行手続きなど
○街道の交通制度
 例)宿場、本陣、旅籠、関所、川越え、一里塚、助郷役など
○往来する人・物・お金
 例)参勤交代外国使節勅使の往来、お伊勢参り、お茶壷道中、飛脚、為替制度など
○東海道沿道の観光
 例)江戸〜京都間における各地の名所、名跡、名物、名産など
○東海道を題材にした文化・文芸
 例)歌川広重『東海道五十三次』や十返舎一九『東海道中膝栗毛』を始め、俳句川柳など

1級
公式テキスト上級編『江戸博覧強記』より約5割
     +
“今年のお題”より約2割


2級
公式テキスト初級編『大江戸見聞録』より約2割
     +
公式テキスト中級編『江戸諸国萬案内』より約5割
     +
“今年のお題”より約2割


3級 公式テキスト初級編『大江戸見聞録』より約7割
     +
“今年のお題”より約2割
posted by 無門 at 10:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月11日

上杉の生きる道 天地人

関ヶ原の戦いの後、上杉は会津百二十万石から米沢三十万石へと移され、直江兼続は上杉の民とともに米沢へ入る。米沢城には謙信のなきがらが春日山から移されていた。家臣を勇気づけようとする景勝の配慮である。謙信を前に家臣の士気も高まる。

米沢へ入った景勝は、家臣たちに上杉を離れずについてきてくれたことに礼を言い、頭を下げる。その姿に胸を打たれる兼続たち。

藩政を預かる兼続は苦しい財政に頭を痛め、解決策として松川に石堤(いしづつみ)を作ることを提案、さらに家臣から開墾に加わる者を募る。家臣が反発するなか、桜井が開墾を引き受けると申し出る。

そんな折、兼続の娘・お松と本多正信の次男・政重との婚儀が決まる。家督を継ぐと信じていた竹松はショックを受ける。惣右衛門は竹松に、5歳で親と別れた兼続の話を聞かせ、父の愛を疑ってはいけないと諭す。雨にあたって寝込んだ竹松を兼続は必死に看病する。その姿に父の愛を感じた竹松は、家督の件を納得する。

惣右衛門に感謝し、自分も父上のような父でありたいという兼続に対し、惣右衛門は兼続こそ誇りと打ち明ける。

数日後、惣右衛門の娘・お貞(てい)の祝言が決まる。

後日、惣右衛門は静かに息を引き取った。
posted by 無門 at 08:16| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月10日

橋の欄干の柱頭

幕府が管理した御公儀橋のなかでも、格式の高い日本橋などには、橋の欄干の柱頭などに飾りが付けられていました。この飾りを何と呼ぶでしょう。


い)葱坊主  ろ)松飾り  は)擬宝珠  に)鳳凰



擬宝珠は、橋の欄干の柱頭などに取り付けられた宝珠形の飾りで、銅でつくられていました。
posted by 無門 at 20:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする