2008年07月26日

江戸の天文学者 星空を翔ける

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江戸時代は日本の科学技術の時代であるともいわれます。


なかでも天文学は数学とならんで独自の研究が発展していました。そのような天文学を切り開いた一人が江戸幕府で初代の天文方に任命され渋川晴海です。本書は彼以降、天文方のなしたことを時系列的に追う中で、当時天文学はどこまで進んでいたのか、観測はどうやって行われどこまで分かっていたのか、歴法はどのような変遷をたどったのかを追います。そして使われていた望遠鏡や観測機器、星図、民間学者などにもスポットを当て、いろいろな角度から当時の天文学に迫ります。 『江戸の天文学者 星空を翔ける』 中村士 技術評論社

第1章 日本天文学の幕開けと渋川春海
第2章 天文将軍、吉宗の登場
第3章 麻田派天文学者と寛政の改暦
第4章 浅草天文台と伊能忠敬の日本全国測量
第5章 日本人を魅了した新奇な西洋天文儀器
第6章 望遠鏡の製作と在野の天文家たち
第7章 いつの時代も天体観望は皆の楽しみ 星空ロマン


【天文学と暦】
蘭学の発達により、医学のほか天文学・博物学・物理学・科学・暦法・測量術・航海術・砲術など、多くの科学技術が伝えられた。天文学・暦法では、貞享元年(1684)渋川春海(安井算哲)が貞享暦を作成し(宝暦4年〔1754〕まで施行)、幕府の初代天文方に任じられた。天文方は渋川のほか、西川家や高橋家など八家が世襲で勤めている。編暦・改暦・観測・地誌編纂がおもな仕事で、西洋天文学に興味のあった八代将軍吉宗は、貞享暦にかわる新しい暦の作成を、天文方の渋川則休(のりよし)や西川正休(まさやす)らに命じた。正休は享保15年(1730)に『天経或問(てんけいわくもん)』『大略天学名目鈔』を上梓し、中国・西洋の天文学を紹介した。正休の改暦・天文観測は六年に及んだが、京都の陰陽頭の土御門泰邦と対立し、また吉宗や則休の死もあって、宝暦4年の改暦事業は、貞享暦のわずかな修正に終わった(寛政9年〔1797〕まで施行)。


幕府の天文方には天体観測用の天文台が設置され、「司天台(してんだい)」と表記された。江戸では、時期により移転しており、貞享2年に牛込藁店、元禄2年(1689)に本所、同14年には駿河台にあった。さらに、延享3年から宝暦7年(1746-57)は神田佐久間町にあり、西川正休が暦法調査の観測をしたのはこの天文台である。明和2年から天明2年(1765-82)は牛込に、その後は浅草福富町に移った。ほかに天保13年(1842)に九段坂上にも設置された。


宝暦の改暦は挫折したが、幕府はふたたび西洋天文学を取り入れた暦法に改めるため、寛政7年(1795)高橋至時(よしとき)を天文方に採用し、同9年に寛政暦を完成させた(天保13年まで施行)。大坂の医者・天文学者であった麻田剛立(あさだごうりゆう)に学んだ至時は、同門の間重富(はざましげとみ)とともに幕府に登用され、静養天文学を紹介する中国の『暦象考成後編』を参考に改暦事業に尽力した。



伊能忠敬・蛮書和解御用】
高橋至時は測量法や惑星の運動理論などの研究も行ない、門人の伊能忠敬を幕府の全国測量事業に推挙した。忠敬は寛政12年の蝦夷地測量を皮切りに、以後十七年間にわたり全国の測量に従事したのち、『大日本沿海輿地全図』の作成にあたった。この地図は「伊能図」とも呼ばれ、日本で最初の全国を網羅した本格的な実測図で驚異的な正確さを誇る。忠敬の没後三年の文政4年、孫の伊能ただのりらが完成させた。…


posted by 無門 at 13:18| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする