ヤマト王権を震撼させた蝦夷・アテルイの戦い自然とともに共生社会に生き、自然と人間を征服しようとするヤマト王権と戦ったエミシやアテルイの生き方に学ぶ、格好の入門書。日本の古代史をぬりかえた。
ヤマト王権の蝦夷征討に抗して闘った蝦夷の族長、アテルイとモレが懐柔と謀略によって斬殺されてから1200年あまり。ヤマト王権(桓武天皇)は、延暦8年の衣川の戦いで大敗。征夷大将軍坂上田村麻呂は4万の朝廷軍を従えて蝦夷征討に赴き、懐柔と謀略でアテルイとモレを誘き出し、河内国杜山で斬殺。
遙かなる縄文の風景を生きたアテルイとモレの血脈が、いまだにエミシの末裔に生き続けている……。
あてるい(生年不詳 - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の東国の軍事指導者である。789年に胆沢を侵略した西国(朝廷)軍を撃退したが、坂上田村麻呂に騙され訪れた平安京で処刑された。史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。
『日本紀略』は、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)が五百余人を率いて降伏したことを記す。二人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入った。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言した。しかし、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決めた。アテルイとモレは、8月13日に河内国で処刑された。
史料にみるアテルイ
田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。
2005年には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。
又、JR東日本は、東北本線で運行している朝間の快速列車1本に、彼の名前を与えている。

