大蔵省退官後に「日本住宅金融」社長に就任。日本住宅金融は1971年6月23日に設立された住宅金融専門の会社(住専)であり、初代社長が著者 庭山慶一郎(元日銀政策委員、1941年大蔵省入省)。
当初は、創業の庭山と三和銀行系のJCBを母体に、個人向けの住宅融資を主に行っていたが、バブル景気で銀行が個人向け住宅ローン市場に参入したため、住専各社は不動産担保向けに融資をシフトさせた。のちにバブル崩壊以降、リスクが高い法人向け不動産担保融資で大量の焦げ付きを発生させ、庭山は辞任し、のちに私財(1億2000万円)を提供した。そののち、会長には元大蔵官僚で日本たばこ産業監事であった岡島和男が、社長には三和銀行から丹羽進がそれぞれ就いた。
1993年、時の大蔵省銀行局長 寺村信行により、いわゆる「金融システム維持」のために、大口貸付先である農林水産省及び農林中央金庫、三和銀行など母体行九行との金利減免をめぐる調整に入った。ただ、農水省が政治家の名前をちらつかせつつ、金利軽減は4.5%までの線を譲らず、銀行局案の金利減免を拒否したため、母体九行の調整役である三和銀行との調整に重心を移した。最終的に、資金返済の猶予、母体行の金利一律ゼロ案の銀行局案が採用され、破綻は免れたが、1994年7月に西村吉正が銀行局長に就任以後、信用組合各社や兵庫銀行などの中小金融機関も含めて住専各社の破綻処理が急がれ、住専国会を経て住専法に基づく破綻となった。破綻当時の母体行は、三和銀行を筆頭に、さくら銀行、あさひ銀行、大和銀行、北海道拓殖銀行、三井信託銀行、東洋信託銀行、横浜銀行、千葉銀行である。
破綻直前(95/03)の融資残高は約2兆円。
元大物官僚の著者の怒りは卒寿を過ぎてなお燃えたぎる。池田勇人や日本経済を牽引した企業人らとの交流など、そのまま昭和の日本を映し出す自分史。
日本画家 父・庭山耕園の生涯
わたしの生い立ちと修業時代
無条件降伏への道
東大法学部
断末魔の時代
原爆に遭う
「四等国」から再出発
資本市場の改革
結核療養と其の後
「増税なき財政再建」の提唱
日本住宅金融株式会社の創業と発展
社長退任と日住金の終結
わたしの楽しみ

